アマチュア音楽のアプローチ2

不作為という言葉があって最近知人と政治について話をするとよく出てくる。たとえば利権が絡む部分は不作為で現状維持を図る、など。作為で事業をでっち上げることもあるので全体をとらえると恣意的な利益誘導、か。
というような政治の話ではなく、音楽の話をしようと思っているのだけれど、そのような利己的な不作為ではなく、しかし怠慢の伴う不作為で、やりたいはずのことをやっていない、というのはどういうことなのか。時間も費用も自由にならないことが現実的にあるのだから、意図的な不作為ではない、で、しかし、自分が何をやりたかったのかふと見失う瞬間がある。瞬間? 瞬間で見失ったとして、失われた何かは忘れられてなかなかもどってこない。これがふと不作為ではないかと思ったのだ。


というまま流されるようにして、音楽を一応は続けているようなことになっている。
アンサンブルを中心に楽器を続けてもう10年と少し。最初に始めてから25年、その間とぎれたのは6年くらいか。その間も全く弾かなかったのは1年くらいか。いや、安い楽器を買うなどしたので人前で弾かなかった年が2、3年あった程度。その楽器は踏んづけて壊してしまったものの・・・今知り合いの絵かきさんの家でモチーフになっている・・・なんでまたこんなことをやってきたのか。人生で音楽はそんなに大事か? という問いを発するのは私が他に美術をやっていたりするからだが。
アンサンブルで弾くための楽器を借りる借り賃のようなつもりで出身大学のサークルのOB会の合奏にも参加していたら指揮者をやることになってしまったり、できなくなったり、その間もずっと楽器を買うことができず借り続け、なんか機会があれば演奏会に出なくてはいけなかったり知り合いの演奏会は聴きに行かなければいけないような気がしたりこれは流されやすいだけとも思える。
アンサンブルで楽器をやっているなどというけれど、そんなちょっと格好がよさげなものではない気もする。言葉の上では事実かも知れないが、言葉にはニュアンスというものがくっついてしまうのだ。とにかく私は客観的に聴くということが自分の演奏に関してはできず、また、客観的であろうというかなんというか選曲に関してはとにかくある種のこだわりのようなことがあるのだけれど仲間に作曲をする人が出てその作がともかくも良くなっていくことにまかせてしまっているようなところがある。それはそれでかなり意義があるとは思うのだけれど、だからといって、プレゼンテーションとして若干の問題があるのではないかという疑念が沸いてくる。
プレゼンテーションが問題なのか、それとも・・・もしかしたら死ぬまでにやりたかったことは違うことかもしれないというような感じだろうか。


というようなこととすこしだけ関係はしつつ、しかし仲間にさえちょっとしか明かせないくらい・・・といっても隠したいわけではなく、頻繁にはできない練習の中でできることは限られているからで・・・にこっそりとやっていることがある。
楽譜を買ったり編曲のまねごとをして、人前で披露することのない楽譜をなぞりつづけ、あやしげな音楽に関する本を読み、楽典のたぐいをごくまれに開いてみたり、インターネットでいろいろなにかを探ったりする。
音楽を聴いたりも少しはしているが、少し前はボサノヴァ、いつぞやはタンゴ、さらに前はジャズ、その前はクラシックで現代音楽、バッハ、ドビュッシー・・・ふつうのクラシック・・・ずっと前はロックにフォークに歌謡曲に演歌・・・子どもの頃にまでさかのぼった。今はそれら全て聴くことになっている。いつ聴いているのだろう。
最近聴いていたのはフォーレ、ヴィラ=ロボスの曲、ドビュッシーピアノ曲、バッハのカンタータハチャトゥリアンの「スパルタカス」・・・は、ついに全音から組曲のポケットスコアが出たのだ・・・ほしい。
IMSLPという著作権がフリーになっている楽譜を公開しているサイトを見つけ弦楽アンサンブルの楽譜を落としまくっている。ハイドンなら簡単そうだと思ったけれど、あまりに多すぎるし、「皇帝」が良さそうだと思って見てみたら簡単ではない・・・。ドビュッシーラヴェルの四重奏曲は面白そうなものの、難しい。ボロディンや、リムスキー=コルサコフなんかはどうかと思ったがやはり難しい。難しいわりにつまらない感じも・・・シベリウスの四重奏曲は難しいけれど、面白そうで掘り出し物かと思ったけれど、だからってなんだ。あ、そうだ。これはパート譜も公開していたから・・・。
ドビュッシーの「レントより遅く」を弦楽四重奏に編曲した人がいるらしくて、著作権がどうなっているのかははっきり確認していないけれど、公開していて、これは面白いと思ってちょっとずつパート譜を作ろうとしている。最近までマイブームは「アラベスク」の一曲目だったのだが、ちょっと「レントより遅く」に好みが移ってきていた。「亜麻色の髪の乙女」のほうが短くて楽だなあ、「小組曲」は、大学生の頃に楽器の上手い後輩にドビュッシーがやりたいと相談したら「小組曲」がいいんじゃないかと言われて気になっていたのだが、数年前に東京から来たマンドリンのアンサンブルがやっていて、確かに良かった。あとは、ずっと、「月の光」をできないかと思っていたが・・・。さらに言えば、「牧神の午後への前奏曲」・・・と思っていたら、藤掛大先生が編曲していた・・・。
で、「アラベスク」と「レントより遅く」に手をつけていて、あ、なんか不作為から脱出できるかな、というような感じがしたのだけれど、このまま完成しないで時間が過ぎていくと、また悶々としてくるのかもしれない。


あとは、今日ひさしぶりに買った新品の、といっても復刻版の安いやつだがCDと、とある音楽に関する本も関係があり、さらに本やCDを買ったこともそうだけれどそのために棚の前でいろいろ見た時間が近年あまりなかったくらいに充実していた感じ、それが何か不作為感をかなり軽減したのだけれど、そんなことを感じるまでに失業期間ほぼ半年を費やしているというのはいったいどういうことか、そして、美術に関しては不作為街道まっしぐら、と、書いたところで言葉がやっぱり適当ではなかったかもしれないと思い始めたけれど、もう読み返すのもうんざりだ。