アマチュア音楽のアプローチ3

オケゲムMIDI音源を聴いている。いったい何をやっているのだろう、私は。


私がやっているアンサンブルのメンバーにバロックルネサンス音楽が好きだと思われる人がいて、どうやら最近のお気に入りはダウランド。去年の、マンドリンの四重奏演奏会、といういろいろなグループが出る演奏会では「Fine knacks for ladies」をやったし、ほかにもいくつか試し弾きをしている。以前はパーセル、バードなんかもやったのだけれど、イギリスの古楽が好きなのだろうか。
バッハも好きらしいが・・・私もバッハは好きだ、というか、多くの人が西洋音楽史上最重要の作曲家だとすら考えているのかもしれない。と、いきなり話が大きくなったな。
ただ、バッハ(1685-1750)より少しだけ前の人であるはずのパーセル(1659-1695)も見逃せない感じがしてきて、このふたりの関係は少ないようにも思えて、しかしバッハの息子やハイドンなんかにはパーセルの影響が出てくるのか、古典派のルーツはパーセルじゃないか、などと、勝手な、何の根拠もない憶測をしている。
いままであまり考えていなかったリズムのこと、小節がはっきりしている感じ、がハイドンモーツァルトなどにあり、パーセルにもあるということでは・・・ないか・・・旋律かなあ。和声がすっきりしているのかなあ・・・。
バッハの活動した主なフィールドは教会と、宮廷かもしれないということをふと考えたけれど、つまりは劇場と街路ではない。しかし、舞曲があったりして、それはしかしどこで弾かれようとしていた音楽かというと、宮廷でもあるけれど、家庭なのかも知れない、とは思った。ただし、バッハ家限定、か?
というのは無伴奏のヴァイオリンとチェロ、それぞれのための組曲というものが宮廷で弾かれるとは考えにくいと思ったからだ、けれど、十分通用するのかなあ・・・。鍵盤楽器のための組曲なんて言うものもあり、かの有名な「ゴールドベルク変奏曲」はあきらかに宮廷といえばそうなのだけれどしかし、よりプライベートな感じもする、しかし最後の変奏である「コードリベ」は家庭の宴会で弾かれるようなものだともいい、宮廷というある家庭のための音楽、という連想も少し浮かぶ。・・・また、アンナ・マクダレーナ・バッハによる鍵盤用音楽のための楽譜帳みたいなものがあって、実際にはバッハのものではなかったらしいとすごく有名な小さなメヌエットが含まれていて、家庭で音楽を楽しむ、あたたかい雰囲気に思いが及ぶ。音楽一家の修練のためのものでもあったろうけれども。
というあとにはドイツのバッハ、イギリスのダウランドパーセル、ということと、ダウランドのたとえば「Fine knacks for ladies」が街路で歌われたという想像や、パーセルと劇場、ということも思い浮かぶ。その違い・・・、世俗曲、なんて言われるものは・・・。
ただ、今の私の知識では、ドイツとイギリスのバロック時代までのことは、ここまでしか想像が及ばない。


しかしいちおうはラモーとルソーの論争、イタリアという(?)音楽の国というイメージも浮かばないわけではなく、オペラという言葉がキーワードになるかもしれない、というような気もしてくるけれどそうなるとロッシーニヴェルディのイメージが強くなって、バレエがなぜか浮かんでしまい・・・音楽史へのぼんやりとしたあいまいかつデタラメな4次元透視図にできるかもしれないような、しかしそんなものを展開するほどの頭脳の処理能力は私にはない、そんなイメージが・・・という妙な森の中を歩くように、ウェブであれこれと調べている間には、いろいろなものと出会うわけで、フランドル派の音楽にまた出会ってオケゲムを聴くことになっていたんだな。




とにかく、レパートリーということで、選曲ということで、上記のことはよくつかわれている言葉では主に古楽を中心として古典あたりの話だけれど・・・。
リズムということなどでは昨日の深夜に書いた(はてなダイアリーでは同じ日付にまとまってしまう)菊池成孔の本に出てきた音楽理論についての内容が関係ありそうだな、ということもあったり、その本にはラモーとルソーの論争についても言及していて、その取り上げられ方が今まで読んだ中でも最も興味深いかたちだった、とか、言葉にするとなんとまどろっこしいことか。




バレエのことが気になり、チャイコフスキーのみならずストラヴィンスキーまで関わってきて、そう書くと私たちには関係がない話のようだけれど、ラヴェルもバレエの曲を書いていたかな、とか、実はハチャトゥリアンの曲を、私は選曲したことがあるなあ、とか・・・「くるみ割り人形」のなかの曲をなんとかならないかということが折々浮かばないわけでもない、ということもある。
オペラ・・・オペラの曲では、最も有名なのはビゼーの「カルメン」だということになってしまっているのだろうけれど、それは日本だけなのかアメリカなんかでもそうなのか、わからないけれど・・・ビゼーの早世がなければ、とか誰でも考えそうなことを考えつつ、オペラではないビゼーの曲、「アルルの女」が私は大変好きで、そこから選曲したことがあった。また、去年の私が出た演奏会のなかでは同じ、先輩である編曲者がプッチーニの「トゥーランドット」のなかの、かの有名な曲を編曲して、取り上げていたなあ、それは思ったより悪くなかった、とか。
というようなことをこの文脈で書くことの意味は・・・。


さっきまで、やはり菊池成孔の本にも出てきた高橋悠治の、関係している水牛というサイトで、公開されている彼の楽譜をダウンロードした。そうするうちに、辻まことという人がいたことを確認したり、如月小春のことを思い出したり、このふたりのことはほとんど知らないに近いとしても、何かざらっとした感じを思い起こされる。
高橋悠治の今年のスケジュールがそのサイトに載っているけれど、辻まことはその中で出てくる。その同じ演奏会でショスタコーヴィチの曲もやるらしいのだけれど、その曲のもとになった詩を書いた人のエピソードがほんの少し書かれていて・・・。
音楽をやるということの意味のひろがりのようなことも思い浮かぶ。


昨日か一昨日か、映画音楽がたくさん載っているものとか、スタンダード集とか、ピアノの曲集を順番に、メロディーらしいところを弾いてみたりということをしていた。
で、昨日最後にやったことは、「ピンク・パンサー」のテーマを5重奏用に打ち込んでみることで、数小節やってすぐやめた。これは作曲が、ヘンリー・マンシーニ