アマチュア音楽のアプローチ4

いちおう書いておこう。
しらじらしいのは嫌だ。が、ウソではないのだ。


楽器を続けてきながら時折思っていたこと。
私は、場違いだ、ということ。
ただ、微妙だ。場違いなのは私か、それとも他の(ほとんど全ての)人か(エラく大きく出るな)。
なぜ場違いかというのは、たいていの人が金も暇もそこそこある人だということ、とりあえず私に金はない。常に。それはいい。かつては暇もなかった。
そこそこであって、たくさんあるという人ではないと言えなくもないが、まあ、老後も大丈夫で、仕事も安定していて、そんな人ばかりという気がする。
私はちがう。私に明日はない。生活のための蓄えを全くできずに音楽に費やしている。
と、非常に情けないことを書いているが、それは偽悪というか、自虐というか、そういう何かがあるためか。
とにかく、実は私の話はどうでもいいような気がしてきた。なのに何で書いたのか、こんなこと。
可哀想なボクちゃんのことを知ってほしいのだ。・・・本当か?


という話の枕にもならないことは推敲して消してしまえばいいものの消さない。
本題。
みんな、ある程度の余裕というものがあって来ている。
ついつい自分の情けない話を書いてしまったが、私はいいのだ。なぜなら楽器を弾きに行き続けていたから。
そういう場所に行けなかった、行けない人たちのことを思う。
半ば念頭に置いているのは、まずは現在まで数年間私が関わってきた場のことであって、ほぼ同じ大学のサークル出身の先輩後輩たちの集まる団体のことだ。アンサンブルも合奏も、おおむねはそういう人たちとやってきた。合奏のほうは、そのサークルのOB会というものであって、それしかいない。
時々、来ている人ではなく、来ていない人のことを考える。
本当に音楽が必要なのは、来ていない人たちのほうではないか、と、ふと思う。


衣食足りて礼節を知る。
そりゃそうだろう。しかしご存じ今の日本はそう単純には行かない。
どうしてこんなになっちゃったのだ。
私の世代もそろそろ限界でリタイアしてくる人が出てくるだろう。私もその一人といえばそうだが、私はそんなにまともな人間ではないのでもっとまともな人たちのことを考えてもらいたい気もするが。
働く人に求められるのは苦しくなり心が追い詰められるほどの事だったりするし、あるいは身体も精神もぎりぎりに追い詰められ、しかも追い詰められるほどに単位時間あたりの労働単価は下がるだけ、とか、狂った現実。
そんなことと同時に失業もあって、雇用する側の倫理の欠如というのは、なかなか恐ろしいもので、けっこう恐ろしいのは建前ではこんなことをしたくないけれど現実的に会社を守っていくため、とか言っている悪い人ではない普通の人のなんかは、予想しないようなひどいことをしたりも、とかあるかもしれませんぜ、旦那。
西欧のいくつかの国で成功しているところもあるというワークシェアリングは、日本ではほとんど全く進展しないまま社会不安を招いて・・・最近は就職難でなんでも耐え抜こうというような意識の若い人が多いはずだけれど、そういうひとたちの冷静な現実認識というものも、いつか自らの首を絞めることになる気がするが、その、自ら、という主体が雇用されるほうなのか雇用する方なのかはたまた関係のない誰かか、なんて。
なぜこんな状況が悪化していって、それが放置され続けるのか。世界第二の経済大国を長い間続けたこの国で、そんなことが悪化したというのは、人類史上まれに見る恥じるべき出来事で、それが大きく問題にならないのは、ミクシイや2ちゃんなどで見られる中国批判、アメリカ批判、たしかにこの二つの国はひどい。あるいは日本以上に。しかしだからといって、自分の国よりひどい国を批判して自分の国が良いような気持ちになり、あるいは勝ち組さんなのか知らないがただのピンハネ業のピンハネ組でしかないだろう卑しい精神を正当化するようなひとたちの言だろう。足元を見ろよ。
残念ながら、人口を増やし、しかも爆発的に、そして科学によって飛躍的に能力を拡大した人類が、もしかしたら最悪の生活しかできない人をどんどん増やしている、世界中で平均年齢の低下を招いている地域すら出ている・・・。人類というものが地球の生態系にとって、どういう存在だと評価しうるものか。
とか、話を拡大するのは私が双極性障害だからだろうか。と、書いてみたけれど本当にそうかどうかはわからないし、確かめるつもりもない。


ブルー・ハーツを思い出すなあ。くそったれの現実。
衣食足りてかなんかわからないが、別に悪いことをしてちゃんとした生活が送れるようになったわけじゃないからいいといえばいいのだが、しかしそんなひとたちが演奏をして、そんなひとたちと似たような人が聴きに来る、それだけの音楽は、本当の音楽なのか、何か大切なものを見失うんじゃないか。
ブルー・ハーツのあと、何かガーンと来ることも少なく、奥田民生のようにじわっと来ることも少なく、彼らはやめたわけじゃないだろうけれど何か伝わってくることも少なく、たまたまドラゴンアッシュなんか聴いて面白いと思うものの彼らも何か表通りにはおらず、若い人が何を聴いているのかもよくわからず、ただ私が老いて感受性が衰えたのかもしれないがそうばかりとも思えず、ほんとうにひどくなる前に響いた音の照らしていた現実がやってきたようでもあるがひどいことはずっと続いていたのであり。


なんてことを書いている私がやっているのはなぜかマンドリンであり、いや何をやって悪いわけではないがだからといって何かそんな世の中を照らす音をささやかでも鳴らしているかというと、見当外れのことをしているような気もするし、すこしは明るさを呼び起こせているような気もするし、そんなはずはない気もする。
独善のような気もする、プチブルの趣味のお供をしている太鼓持ちかと。
べつにプチブルという存在が悪いかどうか、そんなことを一元的に決めつけるべき世でもなく、プチブルの人たちだって物質的な豊かさだけでは満足できるはずもなくそこに真実が現れるはずでもあり、私の一緒にやっている人は、プチブルというほどにも至らない程度のささやかに豊かな人たちということになるのだろうが(文字の上ではまさしくプチブルか)、まあそれにしても事情はあまり変わらず。今プチブルと書いてしまっているけれど、そんな言葉を使うのはサヨクかと言われるとそんなはずもなく、サヨクの人には何かしがらみがあるのだろうが、私にはない。そしてそんなことはどうでもいい。


いきなり超ドメスティックに戻ってしまうが、とりあえずOB会というようなことがいいのかどうかわからない、というような話になる。
結局はすでに集まってきている人と気安い人だけしか集まらないのか、というのはしょうがない気もするが本当にそうだろうか。
仲間内のなれ合い、そうでないにしても、日々のつらさか退屈さか、そんなものにべったりつきまとわれて足を運ぶちからもない人のところまで何かが届いていく、そんなきっかけくらいになるような音を響かせられないのだろうか。せめて、そうしたいというくらいの思いは持てないのだろうか。
なんでこんな事を考えているのだろうか。私はある意味芸術、作品至上主義のはずだったのだが。いやしかし、演奏が美しく響かなければ誰かの心を照らすわけにも行くまい。


それどころかひとづきあいのややこしさや目立ちたがったり誰かに認めてほしかったり嫉妬や責任転嫁、くだらない対立、音楽のちからで吹き飛ばせそうなことにべったり足を取られてそのつきあいのための縮小再生産にむかう。うんざりだ。そんなことを吹き飛ばすことができるものこそ、音楽だと思っていたのに。
残念ながら私も人間関係をしくじり力を失い、ただ消耗するように足を取られた。全て私が悪いのだ、というのは今はやりの悪い癖で、私は悪くない、としか言えない人たちの裏返しか。しかし残念ながら明るく人を集める心の力はなく、もともとないのにさらに暗い心の闇に足を取られ無駄なあがきしかできず、そんな私が悪いのはある意味では確かなこと。
だからと言ってそんなことを考えていてもしょうがないものの、私の背中にべったりと付いた薄気味の悪い何かをぬぐい去ることはなかなかできないような気がしてならない。
私がいるから来ない人がいるだろう。はっきり言って、私がいない方が良い部分は否定できまい。消えた方がいいと時折思う。そんなことを思うような人も嫌なものだ。
しかし、それにしてもこれはナルシシズムの裏返しかもしれないな。


そんなことが事実であるにしても、なお美しい音が響いてほしいと願う。そこに仕事に疲れた老若男女が引き寄せられるような熱、上手の手から水がこぼれないために下手の助けが自らの役目を見つけられるような場、何かいてるんだオレ、様々なタイプの心と技術を結びつけるスコア、心の動き、言葉の運動、輝く場を作れないか。
久しぶりに見る顔に笑顔を見いだせるような場を。


と、しらじらしいまま終わるわけにはいかない。が、似たようなことを時々考える。
こんなことを久しぶりに思い出さねばと思ったけれど、しかしとりあえずしばらく楽器はリタイヤしようと思っている。疲れたし。
それくらいのことで大げさだな。私も恥を知らねば。