音楽と構造 5

こんなタイトルでここに書いた私のいくつかの文章、タイトルとの関連が希薄だ。
読み返してみても、自分でもよくわからないが、音楽のありようにかかわる何か思いがけないところに何か構造のようなことがあるという気がしたんだろう。
が、考えていくうちにあやふやになる、という様子がこれからの文章になった、バラバラの部分の断章、破片のような感じになっている、と、あらかじめ書いておく。
連想の飛躍に意味があるのか。何を前提に考えているのか。



たとえばテーマということがあって、主題と言われるのかな、日本では。これは音楽の専門用語では一続きの旋律のことを言うみたいだけれど、文学でも、美術でもある作品で描きたい主な内容、あるいはその作品で目指していることを表している、とは思ったが、すでにこう書いただけであいまいな言葉を使っているなあと思う。
モチーフなんていうこともあって、題材といわれるのかな。音楽ではテーマというほど大きなまとまりではない音的素材(?)を表していると、これは私のデタラメな解釈だ。美術では主に静物の絵を描くときに、そこに置く素材、例えばリンゴとか花瓶とか花とか、いう具体的なもののことだ。文学でもあるかもしれないが、あまり一般的ではないか。これに関してはどちらかというと音楽に近い気がするが、音楽のような具体的な音素材ではなく、しかし具体的なエピソードのパターンのような気がする。しかし、モチーフについて調べてしまった。Wikipediaで。ちょっと私の思っていたのとは違う。美術では上記のテーマのようなことを指すというように書かれている気がする。文学では、微妙な違いがあるようだ。
テーマを調べてみたけれどよくわからない。音楽については変だけれどたぶんほぼ上記の通り。美術に関してはあまりテーマという言い方はされず、モチーフという言葉が日本語の主題のように使われるようでもあるが、にわかには信じていない。文学に関して、主題、テーマは中心思想、なんて書き方は好きではないが、わかりやすいかな。


変な話になるけれど、これらが問題になるのは、ある(主にひとつの)作品、についてであって、ひとつの作品、あるいは一連のまたは類似の作品群についてであるということで、部分と全体の話になる。のか? ちがうか。
作品というものごとのあり方を、「他から切り分けることの可能なものごと」と、あらかじめ認識した上でのことで、そうではない場合はモチーフも何もあったものではないとか。
しかし、この仮定には意味はないのか。何か大きな概念に関してゲシュタルト崩壊みたいなことが起きているような思考法になっているのだろうか。教養が不確かなことが問題のようでもあるし、直感が鈍いことが問題のようでもある、と、自己批判(?)しはじめてしまったけれど、まあ、とりあえず、いいや。



というようなことは、書き始める前には全く考えていなかったことで、果たして私は何を書き始めようとしていたのか。



作品のあり方として、誰かが構想し、誰かがプレゼンテーションして、誰かが鑑賞する、ということを考えた。
美術の場合は構想と制作が同じ人であることが多い。音楽の場合も同じ場合が多かったのが、構想とプレゼンテーションが分かれてきたとか、実はプレゼンテーションと鑑賞が同じひとになる場合がある、とか考えた。
しかしこれは文章になっているのか。


こんなタイトルで書いたいままでの3回の書き込みでは、感情とか、そういうものが音楽の構造に関係している、というところから始まっていた。これはほんとうはこの一連のものを書くときの最初の動機だった。今もそれについては考える。
次の2回目には、生活なのだろうか。文化なのだろうか。民俗音楽的なクラシック音楽が気になって、音楽はなんにしても、個々の人にとっての営みと関わる、ということ、それは歌だったり、歌の場合は働いているときのかけ声にも近いものだったり、全く違って詩の朗唱に近いものだったり、踊りに伴う耳の楽しみ・・・という書き方は変だな、とにかく踊りに伴ったり、行進や、具体的な軍事行為、というと変だな、銃を撃ったり石などの投擲に伴っていたりもしたかもしれない。器楽はそれらに関わりもするが、独立もしてきた。その独立してきたところにクラシックという抽象性の高いジャンルといっていいのか、そんな傾向を持った一群の音楽の営みがある。ふと思ったが、一過性のものだ・・・。
3回目には、何を書いていたということになるのだろう。鑑賞に関わる話? 文化的なこと? 歴史か。私たちがあたりまえのものだと思っているものは、必然性があって現在の形になっているわけではない、とかいうモチーフ(?)テーマ(?)が私の頭の中では通奏低音のように鳴り続けているのかな。



なんにしても、どうするか、であって、実は私は明日出かけていって人前で演奏してくるのであって、こんなことをしていないで練習をしたほうがいいということになるはずなので、この辺で終わるのだけれど、はて、そもそも何をしたかったのか、何か腑に落ちない気持ちを何とかしたかったには違いないが、この記憶障害にも近い状態は、なんなのだろう。