私たちはどう生きるか

ていうか、私自信がどう生きるか、てな事を考えねばならないのだが。


失職し、失業し、どっちの言葉がいいのかな、てなことは全くどうでもよく、しかし引きこもりというほどではないが、熱心に求職するでもない。
ああ、手頃な仕事はないなあ、と、ため息をつき、手頃ではない仕事なんてものではなく、とても私の手には負えないような力仕事ばかりはたくさんある。あとは主婦向き、あるいは現在家事手伝いの若い女性向きの仕事というものがたくさんあるのだけれど、そんなものには事実上雇ってもらえないことも、さすがにわかるのだ。そういう設定なのよ、地方都市、多様性なし。ただし、もう少し大きな都市には多様性とともに過当競争もあるわけで・・・。
てなわけで、処置なし、と、言っても私がそもそも困難な仕事に立ち向かっていく意欲を持っているわけではなく、なんとこの年齢で片親のすねをかじっているという、一昔前なら存在価値など微塵もない、現在でもミジンコくらいしかない(くだらない洒落失礼)境遇で、焦らないことに「している」だけで、なぜならこんな境遇になるずっと以前からあらかじめ焦って、鬱だったので、それが病気として認定される程度であるかどうかはともかく、すっかり疲れてしまって、それだから選択肢が狭まってもいるわけだが、見切り発車で動くことが危険だということも、さんざん思い知ってきたことではある。
(私の認識では、かつてのいにしえの時代(しかしその遺風は今もどこにでも残っている。私の頭の中にも、そしてそのことに妥当性がないわけでもない)では、私の状態は病気などでは決してなく、しかし、今の精神医学の常識では、もうとっくに病気、どうして今まで病院にかからなかったの、というものでもあると思っている。ややこしいことに、治ってきているからもはやそれが本当かどうか確かめにくいが、まだ病気として認めてもらえるレベルではあると思う。しかし、人と話していて、まともに会話になっているという実感も強くなってきていて(しかしそれは実際に話がかみ合っているかどうかとはほとんど関係がない。私はこんな文章を書いているときより会話のほうがずっと明晰だという自信もある、が、相手次第なので、微妙だし、相手の気分を害さないかというと、保証は全く出来ない)、ある意味幸せなくらいなので治ってきていると思うのだけれど、しかしそれは反引きこもりの状態の私を少なくとも表向きはバカにしない相手との会話だからというだけの話でもあり、「社会に出」た途端にまたぶり返す気もする)


何をしようかという話ではあり、何もしたくないというものが本音でもある。
私は、この世間は、やっぱりそんなに好きではないかもしれないなあ、しかし、心から嫌いではない。まずは、嫌いだろうと血肉のようなものだ。とまで言っては見たものの、やはり好きではない。
世の中を変えてやりたいものだ、というようなことを考えるものでも、ないわけではないが、そのような器ではなく、そのうえに、人の下につくのも嫌いだ。
私を嫌いではない人も(そんなヤツなどいるまい、と、私を嫌いな人は思うだろうが、そうでもない、少なくとも嫌いではない、くらいは)、これでは処置なしということになるかもしれないが、何か、そうでもないような気が、今している。
根拠はない。


人生が一度きりしかないということを、なぜみんな考えないのだろう。いや、考えているのか?
私はほとんどの人が甘受している・・・わけではない、とすれば忍従している運命というものは、甘受すべきではないという気がしてきている。いくらでも根拠は挙げられすぎて困るくらいだとさえ、思う。
なんでこんなにバカばかりなのか。
(ただし、私がつきあいつづけている知人にそんな人がいるわけではないものの)
腹が立つなあ。


だから、とりあえず、安易なことはできないと思うものの、こんな勢いのいいような文章とは別に、私は安易なことばかりしてきたなあ、とはいえ、後悔ばかりしているわけではないが。


表題はどこかで聞いたことがあるあの本の名前から。実はちゃんと読んだことはないが、手に取ったことはある。その本が出てくる本を読んだのだ。
結局は私一人のことしか書いていないかもしれないが、私たちでいいんじゃないかという気がしている。