芸術の意味 1

何もわからない。


たとえば、こんな話をした。
不幸ではないから、絵を描かない。代償行為と言っていたのか、それは忘れた。
私は、そういう枠組みはたしかにありますね、というように、ある意味とっさに応えた。
もちろん表現することが幸せなタイプの人もいる、という話になったのだけれど、もちろん、それもわかっている。
私はどちらかというとそういうタイプですね、とは言ったものの、本当にそうかなと、言った端から思う。不幸なときにそのせいで作品を作ろうと思うことはないが、幸不幸に関係がないというほうが正確だ。
その場はそれで、続けられなかった。帰らなければならなかったのだ。
こんな話をする相手が誰かというと、知り合ってからは長いが、近い人かというとそうでもない。人との出会いというものは、簡単ではない。


それは、そもそもその対比自体が間違っているとも言える。
ただし、芸術の話をしていたわけではなく、帰らなければならない状況で、絵は描かないのですか、と、以前絵を描いていた人に聞いたのだ。
私はひどい人間なのだ。そういう元も子もない問いを、何か話し忘れていることがないか、話せることがなかったかという感じでふと口にする。しかもそれは私のひどさの一端に過ぎない。
だから、そもそもは、私の生き方が間違っている。
と、書いた途端に私に生き方なんていうものはない事に気付くが、つまりは絵を描いたり音楽をやったりする方があたりまえだと思っているのだ。
もちろん絵を描いたり音楽をやったりするするのはあたりまえだ。が、この社会でそういうことを何気なくではなくもったいつけてやることは、あたりまえなわけがない。なにごとももったいつけてやっていることは、そもそもあたりまえではないな。
さらに、そんな答えを、すぐに口にするような人に、そんな問いをしてしまうデリカシーのなさ。
あれ、どうしてその対比が間違っていると思ったのか忘れた。


もちろん、幸不幸は、絵を描くとか描かないには必ずしも関係があるとは限らない。
あれ、変な言葉になっているな。
実は必ずと言っていいほど関係があるとも言えるかもしれないのだが、しかし、つまりは、描く人が描いているときに幸か不幸かということとは必ずしも関係はない。


不幸なときの方が良いものを作れる人がいる。
と、書いたが、実は多分間違っている。不幸な時に作ったものの方がみんなに好まれたりすることが、往々にしてある。
それも間違っているのか。不幸な気分で作ったもののほうが、いや違うか。
不幸なときの方が良いものを作れる、そのほうが正しいのかもしれない。いや不幸かどうかというより、不運か、かな。あるいは、不遇な、か。


なんにしても、表現をする。
不幸なときに正確にそれを表せることは、正確でないよりいい。
そうすることができることを、その表現に触れた人が気付くということ。ある種の不幸があるということを知ることは、いいことだろう。



※と、いうのは途中で、とりあえず挫折して終わることにします。