彫刻をつくる 101031-2

今日は夕方からもひとつ作品に手を付けた。具象の、首と言われたりもする頭部の彫刻、実際の人間よりもかなり小さいもの、それでもかなり重い。粘土で、小さくて台に直接置かれるような形にする予定なので芯は作らず、芯を支える金具を下から差し込んだだけで作っている。角度を変えようというときに楽な予定だ。
昨年、具象の新作をひとつ発表している。その前は大学の4年目に公募展で一度胸像を出したのが最後、いや、5年目のやはり公募展、でも無審査のちがう団体に首をひとつ出した。同じ年度の末の卒業制作展には全身像を出したが、それはその後廃棄してしまった。それは次の年の無審査の団体展にも出されたのだが、見にも行けなかった。その後一度も自分で見ることができなかった。胸像と首は今も残っている。その前の作品はほとんどなくなってしまった。物置で劣化して廃棄したものが多い。11、2年前に学生時代の胸像を再び発表したが、それは作ってから8年ほど経っており、それから10年くらいして具象をやっちゃったという感じがする。
実は4、5年前からレリーフというには立体的すぎる作品を何年も作ってきていたが、どうやって型どりするか決まらなくて2、3年前から放置してあり、粘土にカビが生えた上に、そろそろ乾燥してしまっているかもしれない。スケッチにはたまに具象がある。
そういうものを除いて、本気なもの、といってもレリーフはけっこう本気で気に入ってさえいたのだけれど、それは2年目で二つめ。なんというか、びっくりしたことに、私にしてはという但し書きがつくものの、かなり好調な気がする。


何十倍もの数の抽象の作品を作ってきた、作品なんて言える代物かどうかはともかく。そして、ずっと行き詰まり続けているようなそうでもないようなことで、具象を作って、そして好調だとはどういうことか。(本当に好調かどうかはわからないが)
何をやっているんだろう私は。
抽象の作品を何故作ってきたのか。そうしていることに主張はないのか。
それで具象を作って好調だというのは、と、考えて、私は彫刻を作ってきたので、彫刻を見てきたのだということを思い出す。
具象も好きなのだ。メダルド・ロッソが好きだ。ブランクーシの初期の具象作品とか、マリーニやマンズーも嫌いではない。いいものを見るといいと思う。
以前は具象彫刻を作っていて、たいした成果もなくそのままになっていた。しかし、なんとか抽象作品を構想してものにしたいと思ったが大きなものは一つだけしか作れずそれがいちおう私の学生時代の代表作だ。卒業制作は課題で作らなければならなかった具象の等身大の像以外に作れなかったのでそれを出すことになってしまった。それなりではあったものの、なんか作りたいものかというとちょっと違ったもの。その頃作りかけで粘土のまま廃棄した小型の全身像がふたつあったはずで、そっちのほうが気に入っていたのだけれど、型どりが難しそうでなかなか出来ないうちに卒業になってしまっていた。


なにを追憶しているのか。


で、何をしているのかというと、そんな経験と、その後いろいろなものを見てきたことが、脳内でなんとなく発酵してしまって、手を動かすと作品に結晶していきそうで、なんかそれはすごそうな話だが、すごくはなくて、しかし失敗しないでちゃんとできあがったらすっきりするだろうとは思うということだ。
あとは、抽象も作っていて調子は悪くない。
つまり、どちらにしても、無節操であり、そのあたりはそのうちなんとかしなければ本当に行き詰まるのは必至ということだと思う、が、そういう構図が見えてよかったということもある。