彫刻をつくる 101103

おもいのほか楽しくて自分で少し驚いている。
ここまで彫刻に専念できているというのが久しぶりで、ただし専念しているという言葉をあてはめたくなるほどそうできているわけではないのだが、その度合いが近年にないくらいだということだ。
頭の中が、すっきり彫刻に向かっていると、いえなくもない、その程度ですら久しぶりで、雑念だらけだけれど、作業を邪魔しない。あるいは、雑念も作業の糧になっていて、仕事のことや、人間関係のことや、音楽のことや、そんな近頃のことを考えながら、普通に考えるとどうでもよさそうなものを、傍目には一所懸命に作っているように見えなくもないだろう(ただし誰かが見ているわけではないもちろん)、そんな感じで、そんなでたらめなことがこうも楽しいとは、驚きだ。


仕事はうまく行っているといえばそうだし、とてもそうは言えないといえばそうだ、が、私にはそれなりに向いているだろう。というわけで、仕事の人間関係もそれなりに、私にしてはうまくいっている。
が、誰でもそうなのだろうかはわからないが私も人間関係の問題を抱えていて、そしてかなりそういうことに苦しむタイプだ。が、近年でも今はそれがかなり少なくなっている。
しかしふとおもうのだが私の人間関係がすっきりすることはないだろう。それは誰でもそうだろう。が、敵と身方か、なにかそういう線引きがしやすいひとよりは苦しむのかもしれない。私には八方美人のところがある。その言葉が美人という語を含んでいるからといって私の人間関係の手並みが鮮やかというわけではなく、真逆だといえる。こういうことをうまく表す熟語はないだろうか。コウモリ人間? しかし私がお追唱ばかりしているわけではないが。


今回の制作は音楽と関係があるなあ、ということになって、それは苦し紛れで作ったルールのからみで、なのだけれど、タイトルにも入れることにした。カノン、という言葉を抽象の作品のタイトルの中にそれぞれ入れて、グループ展の抽象作品はそれにかかわるものだけにして、いくつか作ろうとおもっている。
それで満足してしまって、実際に作るのはもう面倒になってきているけれど、その作業も今までよりは周到に、といっても、普通に熟練した制作者であっておかしくない私のキャリアからすると極めてずさんなのだが、あらかじめ考えてやっている。でも、買い物をひとつ忘れたりしているし、こんなものを書いている時点で時間の見通しは崩れる。


関係がないようであるようなことだが、人間は言葉で出来ている、という言葉をつい最近おもいついて、書いておかなければとおもっていた。
感覚や感情というものは言葉からある程度遠く、記述が不正確になりがちだが、それらにも言葉を関係させる事が出来るし、それらをほぼ言葉によって左右してしまうとなれば、その人間は言葉で動いているのだ。
しかしそもそも言葉は感覚や感情を記述することから生じた、などと乱暴な記述が正確ではないのはわかっているが、時間的な経過としてそう書くことも出来る。
卵が先か鶏が先か、という話とは少し違うが、それと似ている。人間ということであれば言葉が先なのかも知れない。いいとかわるいとかいうことではなく。


というようなことも今やっている彫刻づくりとちょっと関係があるようなないようなことで、そこそこ幸せな感じで粘土をつかっている。
芸術論みたいなことも関係していて、今時々読んでいる絵画とか彫刻のことが書いてあるテキストの内容も思い浮かべてやっていて、可塑性とかモデリングカービングとか、絵画的な彫刻だとか、そんなこともとりあえずは頭に浮かぶが、それもまた楽しいのだ。