チャイコフスキー

チャイコフスキーの、交響曲第4番ヘ短調の第2楽章が、毎日、何度も脳裏に浮かぶ。と、いっても、24日にも書いたあたりの冒頭の部分よりあとを覚えているわけではないが、 たのしい感じではない旋律が頭の中で鳴っていても、さほど暗い気分になっているわけではない。なんてよくできたメロディーなんだ、という感興が尽きない。
長いメロディーが好きだ。最初はラヴェルの「ボレロ」だったかもしれない。くりかえしがあっても、二度目には最初とちょっとずつちがっているものがいい。だらだらと長く続くものがいい。その傾向は最近顕著になってきている。
ゆっくりとした音楽の方が好きになってきていて、交響曲も緩徐楽章とかいわれるものが好きになってきている。もちろんそれ以外の音楽も好きだが。先だって小澤征爾の本格的な復帰に選ばれた曲、ブラームス交響曲第1番、大好きな曲だが、ブラームス交響曲はどれも大好きなのだが最近は1番よりも他の曲が聴きたいことが多い。でも第1番の、2楽章は最近妙に脳裏に浮かぶ。序奏のような部分からオーボエのメロディーが導かれる、その出だしからの部分の豊かさ! ずっと何気なく聴いてきたけれど、なんと変化に富んでいることだろう。ただし、チャイコフスキーの場合はアンサンブルもさることながら、オーボエ1パートのメロディーだけでもっと朴訥な変化(?)を味合わせてくれる。
長いメロディーで、特性的、とかいう言葉があったような気がするが、そんな言葉が合っているのかどうかわからないものの、つまり、くせのある長ったらしいメロディーが好きだ。
最近はフォーレの「夢のあとに」なんてものもチャイコフスキーとならんで好んでいる。これにくっついている感情のようなものをどのようなことばであらわすことができるのか。メランコリー? ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」なんかも思いつくがこれはメロディーの中のリズムの変化に特徴があるのか。音階についてもそう。長調とか短調の音階から外れた音が入るほうが好きだ。


チャイコフスキーという人の曲、子供の頃は「くるみ割り人形」の組曲を聴いて「花のワルツ」にうっとりとしたものだ。ほかの踊りの曲はそれにくらべると退屈に感じていたのだけれど、だんだんと面白さがわかってきた。
学生時代初期はピアノとヴァイオリンの協奏曲が耳をとらえた。華やかさの極致。美しい音響、躍動感。
そのうち弦楽セレナーデを知る。ハ長調ののびやかな曲。管弦楽オケの曲と違ってつつましく響く。あるいは、人生の伴侶としてはこんな曲があれば十分ではないのか。あとはドヴォルザークのやはり弦楽セレナーデとか。私は弦楽器が好きだということもあるが、こうして楽曲もそれをあとおししてくれる。弦楽四重奏曲もきらいではないのだが、弦楽合奏曲の方につつましい美しさを感じるのは、それがたとえば学生や市民の弦楽オケに似つかわしく、弦楽四重奏曲のほうは達人のアンサンブルにふさわしいから、とか・・・。


そして最近はとにかくこの、4番交響曲の2楽章がずっと気になっている。音楽之友社の名曲ガイドシリーズなんて本を取り出して調べてみた。作曲中に結婚したが破綻、自殺未遂、という時期の曲らしい。
フォン・メック夫人の援助があって完成した曲ということで彼女に献呈されているが、彼女への手紙で2楽章のメロディについてはこのように書かれているらしい。「哀愁の別の姿」「仕事に疲れ、夜、ただひとり座り、本を読もうとするのに、その本が手から滑り落ちていくといったメランコリー」・・・これだけ読むとちょっと笑ってしまうような描写をともなうエピソードに感じられるが、曲を聴くと腑に落ちる。そんなものを音楽として定着してくれたことはある種奇跡のようなことだと感じる。


哀愁もメランコリーももはや私にとって他人事ではなく、自殺未遂さえあまり他人事と感じない。そういうことは、誰にでも訪れうることだと思う。そういうことを忌避するよりは、そういうものにも共感しうるほうが健康であるとも感じるが、それはもちろんなかなか身につけることのできない豊かさ、柔軟さ、しなやかさがあっての事か。ある種の自然体の難しさ。私が共感するのは、すでに自分が自殺しうるタイプの人間だと感じるようになったからで、私の精神は健康ではない。が、ある種の柔軟さは身につけたかも知れない。ただし、積極性は失ったが。


蛇足のようだが、フォン・メック夫人への手紙は次のような言葉で結ばれるらしい。
「言葉の終わる所から音楽が始まる」
これはハイネの言葉だという。
などと書いたがこれで私のあまり意味のない言葉のつらなりは終わらず、音楽も始まらない。
しかし、ある種の箴言だなあ。と、書いたそばから箴言ということばの意味を間違ってつかっている気がするが、むしろ音楽を始めるためには、その前にがたがた語ることをやめなければならない、という感じもする。
まあ、とにかく、私の周囲の音楽をやる人たちは語りたがる。やれやれ、と、書いては見たが私はこうしてこんな言葉を書き続けているのだからよりたちが悪いのだろう。
あるいは、音楽を始める前に何か言葉で済むことは言い終わって、書き終わっておいた方がいいのかも知れない、という使い方も可能かとも思う。
ハイネやチャイコフスキーが賛成してくれるかどうかはともかく。
ところで、ハイネって誰だ?

ドヴォルザーク : 弦楽セレナーデホ長調

ドヴォルザーク : 弦楽セレナーデホ長調