彫刻について111118

私の作品の評判がときにひどく悪い。ちょっと発表のスケジュールに合わせて焦りすぎたかなあ、と思う。あるいは、何か違う理由が、あるいは、作品を作ったり、少なくとも発表したりすべきではないのか、少なくとも今のやり方、ペース、何かわからないが今のままではダメなのか、と思う。
あるいはこれでいいのかもしれない。そういうものだと。
ただ、ひどく疲れるし、馬鹿馬鹿しくなってくる。


それは制作以外の、お金を得るための仕事のせいなのかもしれないが。
そちらは間違いなくろくでもない。しかし、それがろくでもないのは私のせいなのかもしれないし、世の中全体のためなのかもしれないし、単に仕事やとりまく環境に関わる何かひとつ、あるいはいくつかの要素が悪いだけなのかもしれない。
まずなんとか出来るのは自分についてで、とすれば、世の中が悪くても他の何かが悪くても、あまり問題にしないほうがいい。
私が悪くないことはない。
しかし、それは一旦忘れよう。


自分が作品を作り続ける意味があるのだろうか。
これは問う必要のない問いだと思っていた。それが正しいと思うのだが、私の場合はそうとも限らないのかもしれない。
そもそも私は何をしているのか。
それが彫刻だと思っていることは、すべて的外れではない、と、思う。が、そもそも言葉は半ば意味をなさない。
確かな素材に確かな技術、それはもっともらしいが、私はそれを採用しないことに、なんとなくしていると思う。
かっこいいということはなんてかっこわるいのだろう、ということばのような意味で。
しかし、それでは、何もとらえられない。確かではないというのは確かであるより簡単で、意味がないようでもある。
確かさへの思考を否定しているわけではない。確かさへの盲信は許したくない。
ゆるぐことのない岩であるために、というようなことばが確かに響くのを、横目に見つつ、私の仕事ではない、少なくとも今は、とか、でたらめなことを続けていることになにかことばをあてはめられないかと苦し紛れに思いついただけだろう。
しかし、そのほかにない。


その私のでたらめ、なりゆきでやっていることとは、なんだろう。
何かを探ってはいる。
ちょっと思ったことは、素材と構造と形が同時に現れるように思いつくことを探っているのかもしれない。
と、思ってはみたが、違った。少なくとも以前は。
形態が直感的に現れる、瞬間的な把握を伴う知覚を望んでいるのか。
実際には構造を無視は出来ない、が、思いつく形が重力や物理法則にかなって入手しうる素材と私の持っている技術や道具で実現が難しい、ということに、なって、さて、しかし、そもそもそんな形は意味があるのか、とか。
そうして、「素材と構造と形が同時に現れる」事を望むようになってきたのか。
しかし、私がずっと続けているのは何か。
直感的な把握の模索か。
しかし、なぜ?
同語反復の回避を、もしかしたら私は企図しているのか。
もしかしたら、私は、って何だ。


惰性的な思考は嫌だ。
同じようなことを続けて、何か求道的な気分になって、もっともらしいご託を並べているのは、嫌だ。
しかし、私の今書いた言葉とは違う求道的な姿勢は存在するのだろう。とはいえ、どちらにしても、私にはそういうタイプの真贋はわからないかもしれない。
じゃあ、何がわかるんだ。


いちおうはここまで抽象的な作品について書いてきた。しかし、抽象的? ってなに?
具象的というか、そういう抽象的なものとは別に塑像の頭像を1つずつ毎年作っていて、3年目になった。
そちらのほうがはるかに評判がいい。しかし、1年に1個だからいいのじゃないか。もちろんそれはわからない。
なんとなく楽に作品が作れるので、楽をしてみようという程度。作業的には楽しくない。ちがうか。楽しくないことはない。
しかし、スキルがあるのを維持しておいた方がいいような気がするとか、スキルがあるということを確かめて自信を再確認しないと、メインのタイプの作品への悪評にめげてしまいそうなので、また、褒められたいために具象を作っているのかもしれない。
などと書いてみたが、なんとなく、というのが正しいかな。


突然のようだが、音楽のことも少し書こうと思っていた。音楽は美術、彫刻の創作活動の源泉のひとつだ。
ほかには、読書。思想的なもの、社会的なものが好ましい。世界を知りたい。より正しい認識をしたい。私がわかっているのはしつこいようだが常識は多くまやかしだということ、さらには私自身も間違った常識から自由ではないこと。
はじめから自由な人もいるだろう。そうではない私はそこから出ようとするあたりに作品の生まれるきっかけがあるのかもしれない。
音楽は彫刻と違い、誰かの作ったものをなぞる。構造はほぼ必須、と、いうか、どうしても構造が生じてしまうとか思ったが、それは不自然な考え方だろうか。ハイドンベートーヴェンのことではなく、普通は構造があるように感じないような民族音楽といわれるようなものに、明晰な構造がある、と、思う。
構造・・・何をもって・・・作者と鑑賞者の間とまで言わなくても・・・。
言葉にはやはり構造がある。時間的な制約があり、順番に読んだり聞いたりすることになる。読むよりも、聞く方が、書くよりも、話す方が実は順序を気にしなくて済むと、ふと思ったが、そうもいかない。
美術はより時間から自由かと思ったがおっとどっこい、そういうとらえ方は簡単に過ぎよう、ってか。
いずれにしろ、言葉というものには不信感がある。


最近、バートランド・ラッセルについての本、「ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学」を読んだ。ラッセルのパラドクスが何かはわからない。おおむね、よくわからなかったが、何か今まで私が問題だと思っていなかったことを問題にしてくれたのだこの人は、と思い、そして、その問題意識が私にはとてもありがたいもののように感じられた。さっぱりわからなかったが、読んで気持ちが良かった。
この人には、「怠惰への讃歌」という著作がある。そこにも共感した。
これも作品に反映していると思いたいが、わからない。