近代西洋文化 5

先日、車に乗ったらラジオでベートーヴェンの5番の終楽章がかかっていて、これが楽しかった。でも終楽章の途中から聴くというのがそもそも変ではある。1楽章はどんな演奏だったのか、2、3楽章が実は面白い音楽なのだが、それらはどうだったのか、気になる。
その前に最後のN響アワーで聴いた3番に続いてベートーヴェン交響曲の楽しい終楽章という感じの演奏を聴いて、これは時代がもたらしたものを聴いているためなのか、私の聴き方が変わったのか、と、考えた。
今日聴いた6番もなかなか良かった。1楽章だったか・・・テンポはさほど速くなく、のんびりしていたけれど、華やかな印象。確かザンデルリンクさん。疾走するような6番を聴いたことがあって、息苦しかった覚えがある。時代も、私の聴き方も変わったのだろう。6番は、そういえばゴーシュが悪戦苦闘していた曲。


クレメント・グリーンバーグの著作集を少しずつ読んでいる。興味深い。これをちゃんと記憶できればいいのだが。私の知性は衰えている感じがしないでもない。
ともあれ、造形とか、抽象とか、そういうことについてのイメージが少し変わる。芸術の様々な分野を横断して考察しているが、そんなことをしていいものなのか。たとえば時代によって文学が優勢であったりして、他の分野、音楽やら絵画やらがそれを模倣するのだったか、そういうようなことが・・・考えたこともなかったが、どこか気になっていたことを言い当ててもらったような気がする。
ここで、この文章のタイトルが近代の西洋文化であるということに気付いた。グリーンバーグだと現代になってしまうのか。それにしても、現代のあとがポスト・モダンで、今はいったい何だろう。
もうすこし造形に即して何か考えていたはずだが、忘れた。


失業して、気が抜けた。
何もする気はしない。
忙しかった間、忙しい仕事の合間に、展覧会などに追われて美術の制作をするのに忙しく、しかし本を読まずに居られずに読んでいたのだけれど、今はその頃よりよほど時間はあるのだけれど、半分も読んでいるだろうか。その上、中身が頭に入ってくる気がしない。
人と会って話することがあまりなくなったことが、こういう状態を招いているようでもある。
そして、ふと、私が美術をやって作品を作ることになにか意味があるのだろうかという気になる。
二年間ずっとやりたくてあまりできなかったのは畑仕事で、季節も到来し、そこそこやっている。そんなに、以前ほど楽しくはない。ウツの始まりだろうか。しかし、それほど気鬱ではない。無気力ではある。
展覧会の予定はまだまだあるが、仕事がないのだから、追われるわけではない。追われてやるのが少し嫌だったし、納得のいくまでの事ができなかったが気に入らなかったのに、追われなくなるとやらない。
でもまあ、春が来たこともあって、畑の他にも外回りのことをやったりしている。屋根にペンキを塗ったし、ゴミを少し片付けた。実は、最も大変なのは、家の中を片付ける事なのだけれど・・・。


岡本太郎の、『沖縄文化論―忘れられた日本』 を読んでいる。ずっと。これは美しい本だ。しかし、読み進められなくなってきている。ほかにも、『今日の芸術』という本や、『芸術と青春』なんて本も、読んでいる。安く手に入ったのだった。
あとは、『チョムスキー入門 生成文法の謎を解く』という本も読んでいて、これは思いのほか読みやすい、と、まだ最初の方だけれど思っている。

グリーンバーグ批評選集

グリーンバーグ批評選集