笑う天使

彫刻家を自称したい(とはいえ、その機会はほとんどない)私にとって「笑う天使」というと、フランス、ランスのノートルダム大聖堂の「微笑みの天使」像だ。それをNHKの世界遺産に関する番組で見た。
番組自体は大聖堂全体と、町のひとたちと大聖堂、フランスの歴史などについてのものだった。特に政教分離、ライシテ(宗教からの独立)の原則と、そのもとでの教育のあり方に心動かされるものがあったが、その事を書くわけではない。


「アルカイック・スマイル」といわれる笑みが、古代ギリシアのうちでも古いタイプの彫刻に見られる。口端が上がっただけの、やや硬直した笑いともとれる。この時代の彫刻は直立したような感じで、やはり全体の構成も硬直化している印象がある。
ギリシアの彫刻はクラシック時代に入ると、より写実的な表現、より自然な動きのある変化に富んだ構成、各部分の均整のとれた対比によって、後の美の規範とされるようになる。代表的なギリシャクラシック時代の彫刻家はプラクシテレス。「幼いディオニューソスを抱くヘルメス」(たいていは単に「ヘルメス」像と言われる)が代表作と言えるだろう。
少なくとも彫刻に関してはこのあとのローマ時代にもこの頃のものを超えるものはなく、ルネサンス時代のミケランジェロの登場を待たねばならないという見方もある。「クラシック」たる由縁でもあるが、「規範」があった故に超えられなかったと言えるかも知れない。

ランス大聖堂の「微笑みの天使」はギリシャのアルカイック時代、前5、6世紀から下って2000年近くにもなる後13〜15世紀のもので、上述のような認識を持っている私にとってはローマ時代ほどでもない彫刻の空白の時代の産物だというイメージが強いものの、その間の彫刻作品として紹介される機会が最も多いもののひとつであり、美術史の教科書等で図版を見る事になり、存在だけは知っていた。
ルネサンスの、解放的な表現に至らない時代、アルカイック期のものと変わらないとさえ思っていた笑顔は、テレビで見ると、思っていたより自然なものであった。笑顔の天使像はふたつあるらしく、改装中であるためにひとつは今は見る事ができないようだが、有名な方のものは入り口で来訪者を迎えている。
それは入り口に入る左側の最も奥、中に入る直前にある。悩み、苦しみをかかえ、救いを求めてここを訪れた者は、中に入る直前にこの天使の微笑みに接する。それはどれほど印象深い体験となっただろうか。そう思うとこの微笑みの持つ意味は、なまなかのものではない。そのことに、ようやく思い至る。それにふさわしい笑顔だ。
笑みをうかべた彫刻というものは、アルカイックのものを除外すると、一般的な彫刻のなかからは見い出す事がかなり難しい事にも気付く。それは、あるいは困難さのためではないだろうか。絵画であってもそれは難しい。笑い顔を描く事で有名な画家はひとりフランス・ハルスのみだ。それはいったいどういうことなのだろう。なぜ困難で、なぜその試みは断念されるのか。
「芸術」の世界では、写真が登場して初めて作品の中に笑顔があふれはじめる。


この国の現在は宗教のない時代といってもいいだろう。社会全体は少なくとも物質的な指標で見ると極めて豊かで、この国の国民をすべて養ってあまりあるはずだ。そこで中世とは違ったなにか精神のみが肉体から遊離して苦しむような様態になってしまうひとがあまりに多い。物質的な問題を抱えた人も多いにしても、やはり同時に心が自由を奪われることになってしまう。
かつてこの国の人びとがそうであったように、あらゆるもののなかに神、あるいは精神といってもいいものを見い出す事から実際のひとりの人間の精神がエネルギーを取り戻すとか、そこまでではなくとも心が自由を取り戻すためにたとえば禅が有効なようにも思えるが、しかしそれらの発想をいま言葉にすると、うさんくさいことこの上ない。
そんなことをいきなり書くのは、そんな現代先進国の芸術家、詩人、音楽家、画家、建築家、彫刻家などがなにか重要な役目を担うような気がするが、しかし、そう考える事もまたうさんくさいということになるのは、いったいどういうことなのだろう。