アマチュア音楽家の演奏会3

私の怨念。

音楽をやりはじめて、23年。そのうち6年間はほとんどやらなかったから、17年間か。
学生時代の5年間のうち、楽しかったのは、最初の1年と最後の1年?・・・最後の1年の方もどうかなあ。最初の1年は無心に取り組めたけれど、次の2年目は「やらねばならない」ことが多くなった。あとの3年はその反動で、取り憑かれたようなことをしていただけだ。
伝統の重荷も不愉快だったが、面倒だから誰かに押しつけようとしていた周囲も不愉快、それをうまくなんとか出来なかった自分も不愉快。重荷とはいえ中には見るべき事も多い伝統。しかし私は新しいものも、多くの人よりも求めている。
引き裂かれる。いろいろなことを理解しようとしていることが、なぜ集団の中で理解されないのか。
そんなことも6年の空白の間に忘れ、再開してから楽しかったのは数年。伝統に引っ張られてからけっこう苦しいことばかりになった。やめたいと思うことが多い。新しい事を求める人に不愉快に思うことは少ないが、伝統に引っ張られる私を理解してもらえないことは辛かった。しかしあきれたのは主に伝統の側の愚かさ。
何が悪いのか。矢面に立つ人間が自分の思い通りにならないことを平然と非難する。自分が表に出る覚悟もないのに!
しかし、私も同様のことをしていた気もする・・・いちおう私は矢面に立ったのか? あんなことくらいでは何の意味もないのか? どうして互いに理解しようとしない?


演奏すること、人前で。作品を発表する事とも言える。
美術だと自分一人で責任を取ればいいのだが、音楽は、重奏や合奏が多いし、共同か。独奏でも作曲者とか編曲者という人もいて、演奏者と面識のない場合も、面識がある場合もある。が、それはとりあえずおいておこうか。
問題は共同で演奏会を作る「仲間」と、聴衆。
「聴衆」? 「衆」なのか? ひとりひとり違うのに。「演奏する仲間」と「聞きに来る人たち」が問題だ、というような言葉がいいだろうか。

ひとりひとり違う。
何かしようとして、仲間になるのか? 聴きに来てほしいと思った思いが伝わって、多くの人が聴きに来るのか。あるいは、伝わらず、来ないのか。

感想を言い合うということがある。
それは、仲間で選曲するときから始まる。「こんな曲をやりたい」というときに、同意する人も、しない人もいる。
演奏会のあと、感想を言いたくなったり、誰かの感想を聞きたくなったりする。それは、演奏者同士、聴いた人同士、相互だったり、あと、ある人の言うことは嫌だから聞きたくなかったり、自分の感想を言いたいだけで人の感想を聞きたくなかったり(これがなかなか信じられないが、ある気がする)。
そして、疲れたなあ。

私が悪いのだろうか。きっと悪いに違いない。
何か、傷つくことになったり、傷つけることになったりする。
なにそれ。どうしてそんなことになってしまったのだろう。

美術でも、そういうことがあった。

ほとんどそういうことがなく、素直に感想などを言い合える状況、それもあった。
そこからどうしてややこしくなって、そして、そんなことばかりになってしまったのか。
今のところ私の近くには素直に話せる空間が多い気もするが、何かその空間を自分が台無しにしてしまいそうな恐怖におそわれる。

この文のタイトルが「アマチュア楽家の演奏会」という続きになっているのは、私のやっているマンドリンの世界で、美術よりも遙かにそんなことが多い気がするからだ。アマチュアだからか。そして、私が美術の世界では単なるアマチュアとは少し違った専門家に近いから、何か感覚が狂っているのか。ほんと、たいしたことのない専門家なんだけれど。
ああ、そのたいしたことのない専門家ってのが悪いのか。

疲れたなあ。

でも、こんな鬱屈とは無縁の人が多く、そういう人と音楽をやることは幸せだ。・・・おおむねそうだけれど、あまりの無邪気さにずたずたにされることもある。

どうすりゃいいのかな。