彫刻3-2

美術をやっているということが奇異な、あまり誇れることではないという空気。
それは、美術学科の学生が他から持たれていたイメージと関係があるのかもしれない。
それには国立大学として入試の共通一次試験(当時)の合格ラインがほかの学科よりかなり低いということが、関係があったかどうか。
「芸術家」意識は関係があるか・・・「アーティスト気取り」の部分がなかったわけでもないこと?
実際の、美術科学生の作っていた作品が他学科のひとたちの興味を惹かなかったこと?
そもそもそんなふつうの人たちに見てもらうような作品を作ろうと思わないことが多いかもしれないこと?
美術学生一般はどうだったか? 私個人はどうだったか。
それらのことを、それからずっと棚上げにしてきた。


「アート」は、日本語では「芸術」と訳されるが、「技術」と訳すこともできる。
「ファイン・アート」は、どうやら「美術」だ。何なんだ。


ベンヤミンが芸術に関して、「アウラ」というものを問題にした、その「アウラ」はよく思い出せないものの、作家、ある実在の人間がある種奇跡的な何事かをなしとげたという事実の痕跡、それ故の「(驚くような)行為」「(強烈に)生きていた事実」が鮮明になるようなことかもしれないと思う。
そんな、アウラを持った芸術のジャンル、といった言葉は適当でない感じだが、その美術のなかの絵画と彫刻のちがいということも画然としてある。絵画に比べ彫刻は物質性が強い。「ビジョン」の要素がうすい。立体か立体でないか・・・何かそれだけではない、ちがいが生じてきたと思われる。彫刻と、いわゆる「立体造形」も、違う。
なにがしかのビジョンを呼び起こし、見る物にもそれを喚起させる、という絵画のあり方は、単に表現主義に特有のことだろうか、と、思いはしたものの、絵画的なあり方なのではないかと思っている。
彫刻の場合はたとえば石を削っていくというようなこと、人間が物質に働きかけ、環境を、物質を変化させるという普遍的な営みとのつながりが大きい。と、ふと思ったが、それは現代彫刻に特有な物だろうか。ミケランジェロは? そして、「(立体)造形」というと、もうすこし形而上的になる気がする。何かの勘違いかな。「造形」と言う方が、「彫刻」と言うよりも絵画に近い・・・勘違いかな。
鑑賞者は作品を体験するのだけれど、何かそれらのことのために絵画と彫刻の受容のされ方が違ってくるような気もする。


などといったことすべて、自分が適当な言葉を使えていない気はしているのだけれど。


たとえばヨーゼフ・ボイスが彼の作品を「(社会)彫刻」と呼んでいたのではなかったか、ということを時折思い出すけれど、何か関係があるのかどうかはわからない。