芸術について 4

先程、彫刻について考えた。彫刻って何だろうなあ。


私と同じ彫刻の研究室を出た先輩が確か肩書きを「造形家」としていると思う。私は先輩と違いそれで食べているわけではないので彫刻家というとおこがましいが、もし自分の制作活動に肩書きを付けるならば彫刻だなあと思っている。何でだ?


彫刻の本質は材質、素材かもしれないというようなことを書いていたのは藤森照信氏で、この人は建築家でもある建築史家だ。
変な話しかも知れないけれど、彫刻といえば建築なのだ。そして、彫刻と建築といえばミケランジェロミケランジェロといえばカタチが石のなかに眠っているのを彫り起こすなんていうようなことを言っていたらしく、ヨクワカラナイといえばよくわからないのだけれど、至言だ。
なんというか、素材とカクトウする。そう言うと、木を使うひとがチェーンソーを持って暴れるとか、石を使うひとがノミを持ってコツコツとカタチに迫っていくとか、そんな情景がうかぶ。私も似たようなことをしてはきたのだが、石とか木とか、なにか気に入らない部分があるのであって、とはいっても、本当は好きなのだ。だけれど、ちょっとそれでいいのかな、好きだとかいう私の感情を信じていいのか? と、すぐ疑う。なぜなら私はそういう美人の素材だけが好きではないのだ。素材そのものは美しいと思われにくいけれども、実は美しくなれる素材に興味がある。
そして、私の場合は頭の中でカクトウしているばかりだ。


しかし、そもそも美しいというのはなんだろうなということになる。
あの、ギリシャの彫刻、パルテノン神殿、まあ、西洋ではそんなところ。あとはダヴィンチの絵とミケランジェロの彫刻とかいうもの。
東洋では、中国のものはあまり良く知らないし、日本では桂離宮ですね。
そういうような美術工芸作品的なもので、単に私の頭の中ではあるけれど、すでに西洋と東洋がなにか違う事を書いてしまっているようだけれどもまあ、そういう、絵に描いたような美しさがある。
あとは、美人とか、絶景とか、そういうものが美しいといいますね。ああ、でもそれは美人が西洋で絶景が東洋みたいな話しに、なっちゃうような気がして、それら含めた感じのよくある美しさは、まあいいや、飽きたし、と、いうことも、少しはある。
どこでもあるような路地に落ちる影が、あるいは窓から見える何でもない風景が美しいというような事。


うん、そんなことだな。じゃあ、何もしなくていいのか。何かことさらにつくることに価値を置いていないということになっちゃうか。
実は彫刻というのは素材に手を加えていく行為の要素が、おそらく絵画より強い。絵画にももちろん行為や物質素材の要素はあるのだ。激しいタッチ、やっぱり面白かったりすることがある。素材といえば、コラージュの質感や、盛り上げた絵の具の存在感、あるいはきれいに平らな絵肌も、逆に物質としての魅力がある。なんて絵の見方、これは彫刻的見方なのかなあ。でもやっぱり映像的なものだよなあ。観念的か。幻視的?
いや、物質とか行為だって観念か。


で、つまり、どちらかというと当たり前なたたずまいの美しさというと、造形家になっちゃうのかなあと思う。造園家になってしまいそうな、先述の先輩。気持ち的にはすでにそんな感じだけれど、実際には造園家というと公共事業もやってますというような話しになってしまうから、そうはいかないのだと思う。あるいは生け花とか、そんな利休の仕事に近い何かをやっている先輩がいて、先日作品を見た。


その先輩の作品はけっこう好きだけれど、また利休や織部遠州なんてほんとすごいなあとは思うのだけれど、私は造形家というわけにはいかないなあと思う。やっていることはその先輩より造形っぽい気もしてきた。抽象。
しかしちがう、彫刻という事にしておきたい。
そして上記のような事をふらふら考え、あれ、何の話しだったかということになる。
なにかひらめいたような気がして書き始めたのだけれど、それはどこかに行ってしまった。


そういえば、日本美術に造詣が深い山下裕二さんという人が、全ての絵画は具象だとか書いていたような気がしたのだけれど、最近読んでいるハーバート・リードのその名も「芸術の意味」という本には、芸術の本質は抽象だと書いていたことが気になっていた。
ちょっと調べてみたら自分の今は放置したままのブログが出て来た。山下裕二氏は具象にしか興味がないと書いていたのか。
私は具象は楽なような気がしたのだけれど、それは低い次元のことなのか。


もうすこししたらグループ展があるのだけれど、意欲がわかない。
諸事、落ち着かないためもある。時間はたくさんあるが、何気なく過ぎていくだけだ。