アマチュア音楽家の演奏会 8

また、演奏会に参加した。今年6回目。
アンサンブルの演奏会は2度目。とある団体、合奏での演奏会もやるのだがアンサンブルの演奏会もやるようだ。そこにゲスト出演したのだ。なんで私たちなんか誘うのかしら、という若くて上品で楽器がお上手な方々。まあでもほかにあまりいないのかなあ。
私たちいちおうはそこそこ長く続いているアンサンブル団体、というと、語弊がある。それだとなんだか上手いみたいですね。はっきり言って下手ですし、さらに、長い間その自覚もなかったから続けてこられたのかもしれませんね。なんて、半分はいい意味で書いているのですが、それはややこしい。下手なことの自覚はなかったわけではないにしても、あまり気にはしていなかったかもしれず、演奏を聴いてくれる人のことを考え・・・ていないことはない、くらいは考えて・・・。
自分について書けば、私のようなへたくそよりもステージで演奏したほうがいいひとはたくさんいますね。なかなかできないのだろうが。
どちらにしてもなんでまたこんなに音楽やっているのかな、という思いは最近しきりにおこる。


上品で楽器が上手くて若い方々に対しては、ちがう疑問がおこる。
この人たちが楽器を社会人になっても続けるのは、私たちと何かちがう感じで、なのだろう・・・。どんな感じなのか、とは思うものの、直接聞きたくないかもしれない。私がやめたくなるかもしれないし。
私たち中年(と、言わざるを得ないよね)仲間おのおのも違うのだろうけれど。そんなことを話すまでもなくなんかこんなことになっているわけだが、私が抜けるというのも一計かなあ。しかしそれは難しいか・・・。


音楽をやりたいということは同じらしいが、そんなことは言うまでもないことで、ちがうのは彼らは学生時代に同じように音楽をやっていた「多くの」仲間がいただろうひとたちで、そのなかでも上手い方だったのだろうなあ、という想像はしてしまう、というようなことだ。
もちろん、楽器を続けていない人の中にも同様に上手かった人がいたかもしれない、それにしても、だ。大人数のサークルの片隅でなんとか卒業まで続けただけ、というようなひとはグループの中にいないのだろうなあ。
そんなことを考えるのは、私たちは弱小クラブになってしまった学生サークルの出身で、上手いとか下手とか弾けるとか弾けないとかという概念が違うかもしれないということだ。合奏に片隅はなかった。さらに言うと、私の代まではかろうじて弱小でもなかったのが・・・思い出すと情けなくなるのでやめておこう。
とにかく何か違うんだろうな、と。


それにしても年齢が高いのに楽器が下手というハンデを背負い、若くて上手い人たちに混じって演奏するというのは微妙なものだった。先輩面はできないよね、参加する意味は何だ。よくわからない。
あまり話しかけるなよ、とかちょっと思ったよね。私だけだろうけれど。しかしそこまで感じの悪い人になれるわけでもなく、しかし感じがいいわけでもなかっただろう・・・。
そういうわけで、私は自らの場違い感を麻痺させることにして、演奏もユニークな感じくらいはするだろう、なんとかあまりぼろを出さないようにしよう、やりすごそう、と・・・。
そんなにまで(?)何のためにしたかというと、こちらの側は音楽活動とやらをしてきて、作品のストックを満を持して発表するというようなスケジュールでやっていく、アンサンブルとして度量もないのだろうと、思うのだ。おのおののスケジュールもなかなか合わないし、エネルギーをそんなに音楽ばかりに割けない。何か面白いなと思っても、そのうちに鮮度が落ちたりする。だから、発表できる場があれば、発表しよう、そんな感じかなあ。
作品といっても私が書いたわけではないけれど、少しだけアンサンブルの共有財産という感じがあり、アンサンブルメンバーおのおのの意識や、スケジュールまでもが、発表のタイミングも、作品の中身すらも少し左右する。現在5人メンバーだけれどいつも活動できるわけではなく、作曲家から3人用の曲が出てきて今回3人しか出られない可能性が高くてこれはちょうどパズルにはまった感じか、と。
いや、これは私のイメージであって他の人は違うかな。
そして、参加するからには私たちではなく、その演奏会にとって意味があったのか無視はできない。意味はあったにしても、なんだかよくわからなかったなあ。


思い出したのは、美術の予備校に受験間近で通ったとき、水彩の授業で私だけ淡彩ではなかったこと・・・淡彩でないというだけで、講評で例に出されて、何であんなのがいいの、という空気が蔓延した、というか、こそこそ聞こえていたよね。実際に色彩への配慮もできなかった。形態が強すぎ。油彩ではもうちょっとは色を使えたし、違う感じで描けるのに・・・。
今回若いとはいえ大人だし、その時のような嫌な感じはなかったけれど、音的に悪目立ちしたかもしれないな、という感じはして、そんな昔のことを思い出した・・・。
結局私は美術の学校では語弊があるが簡単に言うと上手い方になっていったのだが、音楽では下手なまま続けて行くにはどうすればいいかという発想をしている・・・いや、上手くなろうともしているし、上手くなっている部分もあると思うのよ、しかし、もともとの素質もあるし下手になっていく要素もあるわけで、何をやっているのかなあ、俺、という感じはぬぐえないな。
続けていく先に何かを目指すなら・・・。続けていくことだけを目的にするなら、何でもありなのかもしれないが。
実は私もこれでも未だ何かを求めているのか、目指しているのかなあ。そして、たいして上手くないしたいして見込みもないのに何を目指すの、とか、考えないでもない。才能の話? 努力の話? 努力できることも才能だよね。そんな才能はないなあ、私には。努力みたいな事はいちおうはするけれど・・・。


なんというか、上手い下手に収まらない何かを追求したい気もする。
しかし今回、プロやプロ級や、アマチュアだろうけれどなんだかすごい奏者に混じってプログラムに並ぶのは、意味がよくわからなかったなあ、自分の存在意義をどこに設定したらいいのか、とか。しかも最善を尽くしたとは言い難かったし、なんだろうね。ごめんなさい。
得体の知れない違和感とともに当初の目的は果たした、しかしそれでいいのか、という違和感をなんとかしたかったのだけれど、ていうか、言い訳? という言葉遣いもなにかいたいたしく・・・。
上手い下手に収まらない何か、私には今のところ何もないかなあ。
しかし、とにかくもここまで言葉にしてやっとひとごこち付いた。


ああ、そういえば去年仲間がこの団体の同じような企画に出たのを聴きに行って何か書いたんだなあ、読み返すのも怖いなあ。あのときはまだ少しパニック症状みたいな感じがあって、実際に行くだけも怖かったのが、一年半くらい経ったのか、今回は演奏もなんとかできたし、少しは普通の人っぽく振る舞えたのではないか。ずいぶん精神状態は回復した。しかし、落とし穴があるからなあ。
あ、これは別の話だ。


まあ、とにかく、それでも人生は続く。この稿も続くかもしれません。