読書メモ100219

読んでいるのは今度は「ルネサンスとは何であったか」。塩野七生著。


気になった言葉。この本の中で引用されている言葉なので孫引き。
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」
という、この言葉はルネサンス時代の人の言葉ではなく、ユリウス・カエサルの言葉らしい。これを、「人間性の真実を突いてこれにまさる言辞はなし」としたのがマキアヴェッリで、この人がルネサンスの人だという。
そこまで言うとあまりにシニカルではないか、ということになるかもしれないが、カエサルの言葉は確かに示唆するところは大きい。さらに加えると、見たいと欲する現実しか見ていないことに気付かない、もっと言うと、見たいと欲すること以外は間違っているとしか考えない。私もそうだろうが、その程度はひどいほうではないと思いたい。
どちらにしても、これでは、立場が違う人とはコミュニケーションが成り立たない。しかしそこから先がないわけではなく、今まで見えていなかった現実が見え始めるということがあるから人生は面白いのでもあろうが、しかしそれは得難いものでもある。
などと思っているだけではなく、うまくそれを仕組むことができないか。


以上はP58にあった。P59にも面白いことがあった。引用ではなく著者の言葉。
「言語には、他者への伝達の手段としてだけではなく、言語を使って表現していく過程で自然に生れる、自分自身の思考を明快にするという働きもある」
この続きも面白く、ルネサンスのすごさが端的にわかる内容なのだが、とりあえずここまでにしておく。
確かにね、そういうことも、ある。が、しかし、こういうところ、ブログにものを書くのはそういうことを期待してでもあるのだけれど、どうもうまくいっていない。
しかし思ったのだが、今もまだ、どちらかというとルネサンスの続きではあるようなのだ。中世には、もどっていない、と、思いたい。
ルネサンスのあと、啓蒙主義や民主主義革命といえるようなことがあって、現代社会があるようでもある。しかしはたして、こんな言葉で、歴史の現実をより広く照らし出し、見えたことになるものだろうか。
蒙昧ではなくなっていると考えたいものの、しかしあやしげな宗教もどきに幻惑されてひとびとが暮らした中世と、資本主義の幻想に縛られて時間を奪われている現代が似ている部分はあるかもしれないものの・・・。


というところまでしか読んでいない。続きが楽しみだ。


そういえばこの本の装幀が好きだ。といっても、外見というよりは、やわらかい表紙が好きなのだ。文庫や新書ではないのだけれど、ハードカバーではないと言っていいのだろうか。
話がそれるが、「カンバセーション・ピース」も、硬い表紙ではなかったのが好きだった、と、思い出した。さらには、本の上を断裁でそろえていない造本も好き。古くなったらブックオフで削られるのかなあ。こちらは外見も好きだ。

ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)

ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)