マンドリンオリジナル曲について7 大栗裕さんについて

大学生の頃、大栗さんの曲は2曲、3度弾いた。
1年生の時には「シンフォニエッタ第5番」、2年生で「シンフォニエッタ第2番「ロマンティック」」、卒業し損ねた5年目に再び「シンフォニエッタ第5番」。5番のほうは、どちらも演奏会のトリの曲、2番は1stステージのトリ。


シンフォニエッタ」というのは「小交響曲」といったところだろうから、形式的に古典的である・・・と言うと言い過ぎかもしれないが、そういった伝統とは無縁ではないはずだ。
いわゆるソナタ形式を採用することが多い三大形式(?)は、器楽ソナタピアノソナタ、ヴァイオリンソナタなど)、弦楽四重奏曲交響曲ということになるのだろうが、演奏時間の長さが大規模な曲を、整合感を保って構成しうる・・・技法、と言っていいのかどうかわからないが、そういう形式だろう。不充分で、誤りのある解釈かもしれないが。
ソナタ形式は、私の中ではある程度のまとまりを持った対照的な単位が、交代、反復によって対比されることで楽曲が構成される、そんな形だと思っているけれど、これもまた少しでも正しいかどうかわからないが、「二つ以上の主題が・・・」といったような言葉を調べて転載する気にはならないので、でたらめな印象を記しておく。
そのうちの、合奏形態の大規模なものが交響曲で、他の形式に比べてデュナーミクと音色の対比効果が増大する。多くの人が携わっているということの・・・効果? も。
協奏曲というものとは、何か一線を画する気がしたが、一般的には協奏曲も古典的な形式に則ったものがよく知られているとは思うけれど・・・。演奏者の存在感が・・・指揮者とソリストでは・・・指揮者というものは作曲者に近いが、ソリストは・・・というのは、何か的外れな話なのだろうか。
ふと、音楽って何だろうな、と、思う。しかしそれは、私が音楽の創作、創造的な側面により注目するためかもしれない。


マンドリンのための合奏曲には構成のしっかりしていないものが多いということが言われる。ソナタ的な対比構造のことを言っているようにも感じられるが、実際のところはわからないものの、ドイツの音楽の影響が強い一般的な感覚からすると、もしかしたら日本のマンドリン界出身の作曲家たちも、イタリアの近代のアマチュアに近い作曲家の奔放に思える音楽性から影響を受けたのか、とも思える。とはいえ、作品ごとにそれぞれの構造を見いだすことはできるはずであり、構成に関して問題にするよりは楽曲全体の訴求力を問題にすべきだと思う。
しかし、実は私は構造的な作品が好きなのかもしれないという気が、最近とみにしてきている。ドビュッシーが好きなのだが、実は非常に構成がしっかりしているというようなことを最近読んだような気がする。


私は実は、ブラームスを中心にそれなりに古典的音楽の成果に注目してきた。その中心に交響曲があり、とりあえずは弦楽四重奏曲よりも、ひいては協奏曲や器楽ソナタよりも関心が高かった。それは合奏、しかも指揮者を擁してのそこそこ多人数の合奏から始めたために、そんなことに、たまたま、なってしまったのかもしれないが、クラシックがクラシックたることとも関わっていなかったわけではない。ただ、器楽ソナタに行かなかったというのは・・・。
あるいは、交響詩に興味関心があまり行かなかったというのも、つまりは一番すごい形式に関心が行った、そんな求心力が、この形式にあったとも思える。
実はすぐにストラヴィンスキーバルトークに興味が移ったものの、美術学生だった私の前衛的なものへの関心の傾斜もあるし、バルトークで一番好きだったのが「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」なので、今では古典的な形式感バリバリの音楽ということになっているとも思える。
どちらにしても、合奏を組織しなければならないということが私の関心に何らかの影響を及ぼしていたかもしれない。
あとは、関心はあったにしても、ベートーヴェンブラームス交響曲の大きなフィナーレに、何か疑問を持たずにはいられなかったのも事実だ。同様に大きな見事なフィナーレであっても、バルトークに惹かれたのも、人間的でありすぎるより自然に近いものを感じ取ったからかもしれないと思うが、何を書いているのだろう。


シンフォニエッタ」に戻ると、同名の曲で最も有名なものはヤナーチェクのもので、それは決して古典的、ソナタ的な構成原理によるものではなく、もうすこし小さな単位を繰り返していくものであり、その繰り返しを以前は煩わしく感じていたのが、最近聴いたときには見事な構築物に感じ、古典的ではないのにそういう構成をつくりあげた個性に感嘆した。
ということでは、交響曲というほどにはシンフォニエッタという形式には(名前には?)古典的な対比は求められてはいないようでもあるし、ヤナーチェクのものはしかし、構築的であることには変わりなく、器楽的洗練を構築的に求めるような伝統が感じられなくもない。


大栗裕の「シンフォニエッタ」では、少なくとも2番と5番では、多楽章構成で、3楽章、急−緩−急の対比が明確なところに、古典的な伝統と連なっている感じを受けるし、2番の1楽章をちょっとなぞってみたところでは、はっきりした2つの主題の対比も明確で、効果的になっている。
そんな曲に、「ロマンティック」なんて表題がついていて、作曲者の題したものであったはずだけれど、より土俗的な感じのする5番にくらべても、民族主義的な時代より古くさかのぼったロマン主義時代への回帰的な意図があったものかもしれない。
実は卒業後にも、学生の演奏会にOB賛助として参加してたしか「舞踊詩」を弾いたような気がしてきたし、アンサンブルとも小合奏ともつかない編成で「シンフォニエッタ第6番「土偶」」を弾いたことを、今になって思い出したが、印象的な部分を断片的に思い出せるだけだ。
あとは、大学サークルの部室にあった「シンフォニエッタ第4番「ラビュリントス」」と、数ヶ月前に「バーレスク」を聴いたけれど・・・。
しかし、はっきりとはわからないが、どの曲にも理知的な明快さがそなわっている印象は持っている。民族的な印象と、相容れないように感じられるのかもしれないが・・・。


いずれにしても、大栗さんの作品は、取り上げられることが少なくなったのかなあ、と思われ、その流行の流れは、マンドリン界というものへの違和感にもつながっている。私の活動はしばらくアンサンブル中心で、合奏には、いきなり指揮をすることになって突然深く関わらざるを得なくなったのだけれど、その時の中心的な関心は一にも二にも選曲だった。もう指揮をすることはないかもしれないが、その時残念なことのひとつは、大栗さんの曲を選曲できなかったことかなあ、と、思うだろう。


なにか他の音楽と比較して、マンドリン合奏はああだこうだと言う人がいて、見苦しいというか、みっともないというか。
論旨にはわかる部分も多く、レパートリーの曲の形式や質云々もある程度はそうだ。クラシックの有名な曲のスコアをあたって、こんなに魅力的な曲がマンドリン合奏にもあったら、と、思ったり、いい編曲があったら、と、思ったり、それは数小節をなぞっただけで愕然とするときもあるものの、しかし、それはもしかしたらまだ今まで開拓できなかった可能性が残されていることを示唆しているとも考えられる。
大栗氏の曲も、その端的な例であり、その意義は、まだまだ汲み尽くされていないのではないか。