「自然な建築」

図書館の入り口に、建築に関する本を特集する棚を作っていた。こんなに面白い本があって、ピックアップすることが出来るスタッフがいるんだなあ、と、思った。建築の本の面白さがわかるスタッフが、こんな田舎町の図書館に? どうもなにか違った理由がありそうな気もするが、わからない。あるいは、今はちょっと調べれば気の利いたセレクションが出来るのか、あるいはやっぱりこんな特集をするくらいだからホビー好きかつアート好きな感じの方が・・・いや、いいのだけれど。
隈研吾さんという建築家の方は、ちょっと気になっていて、そんな中に、新書版のこの本があって借りた。


思ったより面白い。タイトルが、あたりまえのよくある趣向か、という感じにヘタをすると思えるが、そうではなくラジカル。
ラジカルって、あまりいい意味ではない感じがするが、考えようであって、また、ラジカルにもいろいろあって、私はラジカルは好きだ。そんな私はラジカルなために敬遠されているようだが、私のラジカルはいろいろあるなかのあまり良くないラジカルかもしれない。が、まあいいや。
この本の話、建築についてに戻ると素材に関する考察がラジカル。コンクリートというものの位置づけ、この素材への否定的な姿勢がまず強烈で、それはまた20世紀モダニズムへのあまりに明快すぎる否定的な態度とも言えるかもしれない。でも、あっさりと書かれているから、そんなにファナティックではないのかもしれない。彼にとっては普通の話なのかなあ。
あとは、私もコンクリートの合間で育ったので、とはいっても木造モルタル生活がほとんどだったかなあ。ただ、百科事典で見てあこがれたゲンダイケンチクはコンクリートで、安藤忠雄だって嫌いではなく、彼はコンクリートの打ちっ放しがトレードマークだったよね。というわけで、コンクリート否定は私のアイデンティにも関わる。
あとは、現在の現実的な事情では、あるいは近い未来しばらくの間、脱コンクリートは難しい。隈さんにしても、どこまでがそうできているのかわからないが、あるプロジェクトではついに基礎のない、傾いた地面に置かれるような建築を作ったらしい。で、コンクリート基礎の現実的な事情をさらっと言葉にまとめてしまったり、鮮やかすぎますよ。
しかしまあ、そんな言葉ばかりが鮮やかなのではなく、現実にいろいろそれを実現していて、それはまたラジカル、だけれど、ナチュラル。


素材、否定されたのがコンクリートで、そうでないのが木、竹、土、というところまで読み進めているけれど、それが自然なのだ。あとは、コンクリートそのものにもまして、その使い方に批判的で、素材があらわにならない使い方が特に槍玉に挙げられる。鉄筋コンクリートの表面を大理石で張るような・・・。素材が意味を持ってくる使い方。構造が見て取れる作り方。それは、なんというか、時代精神というようなものにもつながってしまう。建築が変わると、考えも変わるしかないのか。


実際には妥協して、たまたま得られたような家に住んでいる。団地というものがあったし、そうではないが、木造モルタルの中古の貸家に、私は住んでいる。かなりの人生、そんな建物に住んできた。木造に2年、鉄筋コンクリートらしきに3年住んだ以外は、覚えている限りはすべて・・・サイディングの家にすら住んだことはない・・・。
しかし、これはとりあえず忘れておこう。
でも、また思い出そう、そのうち。


もう一つ、彫刻との関係を考えさせられた。
住宅、建築にすべからく基礎というものがあって、すべからくコンクリートで作られている。その基礎を彫刻の台座になぞらえているのには、彫刻を作るものとして、・・・まいった。私は台座に懐疑的なのだが、妥協的で、台座を廃止できない。台座が悪いわけではない。基礎が悪かろうはずもなく、すべからく型枠で打ったコンクリートの基礎だということが・・・私の彫刻は落ち着いたたたずまいを手に入れることはなかなかない。台座を作る事も出来ず、しかしまた、台座の要らない彫刻を作ることも出来ず、出来合いの、というとちょっと違うが使い回しの台にまにあわせの台座を置いてお茶を濁している。
お茶を濁さずに行きたいものなのだが。

自然な建築 (岩波新書)

自然な建築 (岩波新書)